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「黒人記者が語る『抗議デモ』と『人種主義』」を読んで

この投稿では、日本人の定義をこんなふうに考えてみます。 日本人とは、日本または海外に住む、「私は日本人である」と考える人のうち、「日本人は、すべて、私のようにあるべきだ」と信じている人のこと。 どうでしょう。何か、変だと思いませんか。 上記の定義で、話を進めていきます。 日本人が、Black Lives Matterと主張する抗議デモを見聞きするとき、3つの間違いが生まれます。 ひとつめは、「抗議デモの引き金となった、白人の警察官などが黒人の市民に対して行う不合理な行為は、頻繁に起こるものではない」という認識です。 これは、間違いです。理由は、次の動画を見れば理解できます。 Black Parents Explain | How to Deal with the Police Black Parents Explain 和訳付きはこちら ふたつめは、「抗議デモは、私たち日本人には関係がない」という認識です。 これは、間違いです。理由は、私たち日本人は、差別されているからです。バイエ・マクニールさんが書いているとおり、そうでなければ、アメリカは日本に原爆を落とさなかったでしょう。 みっつめは、「抗議デモを見聞きしても、私は、何もしていない。何もしていないのだから、ほめられることもないが、責められることもないはずだ」という認識です。 これは、間違いです。理由は、見聞きして何もしないことは、それを認めることを意味するからです。 私がこの3つの間違いに気づいたのは、最近のことでした。この3つの間違いに気づいたあとに、自分の中に「日本人ではない人」に対する恐怖心があることにも気づきました。 私は今、怒りの感情を持っています。また、"Our Lives Matter"とも、思っています。 知ること、疑問を持つことを続けたいです。そして、手の届く範囲の私の世界を変えていきたいです。 黒人記者が語る『抗議デモ』と『人種主義』

子どもと昔話69 うさぎ!第42話 きららの断章連作

“切れていく人のつながり ” うさぎ!の次のページに載る、下河辺牧子さんの『老いの場所から』 の一節。アメリカ大統領選挙の直後の今、何とも目に吸いつくような表現です。 花をつくる、世話する時間もなく、電気を吸い取らせた電子機器に何時間も向かう私たち。つながりは消え、街から花が減る……。ドイツでもその様子が見られると言います。 つながり。灰色の嫌うもの。灰色は断絶、孤立を好む。devideという単語を聞く今、灰色はにやにやとしているでしょうか。 もっと大きく、もっと強く。その願いを電気が叶えてきた。同時に、私たちは電気に縛られています。電気が止まればとても困る。ないと困るものは、私たちを縛ります。「縛られているなあ」と、気づく、思うスポットを与えてくれる、そんな『子どもと昔話』です。 集まること、つくること。団結すること。灰色が嫌うことを、日々、していきたい。スマートフォンも使いよう。何万人ものデモも起こせる。離れた仲間を1つのスクリーンに集めて、みんなで花火のような場をつくることもできる。 まだ誰も見たことのない一日を、みんなで迎える。今、何ができるかな。それは大きなことじゃなく、小さなことであるはずです。 春日ひまわり

魔法的を語り合う

目次 伝説の? 呪文 メッセージ 時間を変質させる振動 子どもと魔法 話し手、聞き手 オリーブ育ち・春日ひまわり、ティーカップの女の子・チャ ✦ 縦書き版はこちら チャ「魔法的よかったね。」 ひまわり「よかったよね~。特に新曲が。」 チャ「みんなそう言うね。」 伝説の? ひまわり「でもさ、『今日ライブ行くんです』『誰の?』『オザケンの』って言ったら、相手はね、ことごとく『……』ってあっけにとられた顔で言葉を失うんだよね。」 チャ「『え……? あの?』みたいな。」 ひまわり「そうそう。みんなの中では、昔の神話の登場人物くらい遠いみたいで。」 チャ「あー……ね……。」 ひまわり「『今は子猫ちゃんって言わないんだってね。』とか。オリーブを読んでた友達からは、『おー! オザケン元気にしてる?』って聞かれた。彼女たちにとっては、けっこう近くて、少し遠くに住んでる遠い親戚の兄ちゃんくらいね。  今の小沢健二さんの音楽は説明しにくくて困ったよ。ライブのあのよさを、伝えるのが難しくてさ。」 チャ「そうね…。昔とは違うんだけど、エッセンスは同じって感じかな。あえて言うなら。あとは『大人になってたよ!』とかか。」 呪文 ひまわり「今回のライブで一番印象的な心象画像は、スクリーンに映った歌詞。あの圧倒的な文字量に、とにかくまずすっごく圧倒された。」 チャ「難しい漢字もいっぱいだったね。」 ひまわり「魔法って……どこかまがまがしいでしょう。怪しげな、でもだからこそ気になる、惹かれるっていうか。  あの、文字が歌より先に来る演出はかなり呪文ぽくて、本能的にやばいことが始まる感が出てた。」 チャ「あれだけ先にガンと来られると、つんのめるよね、気持ちが。前のめる。」 ひまわり「だからかな、実際に演奏が始まると、歌はスローテンポだったりするんだけど、煮詰まった濃い感じがしたよ。  でも、歌詞が攻めてきて、前奏を心安らかに楽しめないという……。」 チャ「覚えなきゃ! ていう。」 ひまわり「ねー。次録音出るのいつかわかんないしね。」 チャ「でも歌詞が目で見えると、その歌のメッセージがわかりやすいよね。」 メッセージ チャ「今回のメッセージって...

2016年春のうさぎ!

すっかり暖かくなりました。 春の「子どもと昔話」が手元に届きました。 今回、エリザベスさんのフォトエッセイはなく、また「うさぎ!」は番外編としてmitsukiさんの寄稿が紹介されています。 小沢健二さんは5、6月に日本でツアーをする予定で、もしかするとそちらの準備でおいそがしいのかもしれませんね。 安定の牧子さんのエッセイも要チェックです。 不意に土踏まずをマッサージされたような、ほのあたたかい読後感が味わえるのが「子どもと昔話」の魅力だと思います。

子どもと昔話64(うさぎ!39話在中)を読みました

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2015年夏号の「子どもと昔話64」。 2015年7月中旬に、ポストに届いていました(定期購読中)。 中には本誌と、郵便局の振込用紙。購読を開始してから1年経ち、継続の払い込みの時期になっていました。 生の歴史、ガラスの中の歴史 届いて、まず読んだのがエリザベス・コールさんのフォトエッセイ。 ラオスに残る爆撃現場の瓦礫。ガラス棚に陳列されていない、生きた歴史を切り取った写真です。ガラスの展示の中や、教科書の文章の中だけに「正しい歴史」があるという、私たちの認識への問いでした。 それから、下河辺牧子さんの「老いの場所から」。家事、「良か仕事」についての文章でした。家事労働を担う身に染みるお話でした。 そのあと編集長の「日本を見つめる」を読みました。そして、世界の日本の昔話の内容を確認し、「うさぎ!」を読み、今に至っています。いまだ読書中…。 DIYについての講義 今回の「うさぎ!」には、うさぎくんがメインで出てきます。特別好きな登場人物です。 「DIY」についての、うさぎくんからの講義が展開されていきます。 日頃、自分の服や子どもの服などを、ミシン(ブラザー製)で縫っている私にとっては、「そうなんですよね!」と強く頷ける内容でした。 手づくりすることで得られる結果。 椅子をつくることで開ける、新しい世界。 手づくり、DIYは、身近ながらかなり強く、手応えのある、抵抗手段のひとつである気がしてきました。これからも積極的に続けていきたいと思います。

第38話(『子どもと昔話』2015年春号)を読んで

2015年の4月中旬に届いた、『子どもと昔話』2015年春号。 連載『うさぎ!』は第38話が掲載されています。 また、『「うさぎ!」を読む会の報告2』として、大阪ココルームの読書会の方々からの寄稿文も。 私は『子どもと昔話』が届いたら、まずは、巻末の小澤編集長の「日本を見つめる」を読みます。今回は、特別に転載された元ドイツ大統領の演説(過去に目を閉ざす者は、現在にも目を閉ざすことになる)に特に感銘を受けました。その後、下河辺さんの「老いの場所から」を読み、その後に『うさぎ!』関連を読んだり、エリザベスさんのフォトエッセイを見たりします。 「今回はどんな昔話が入っているかな?」という点も、お楽しみのひとつです。 さて今回、『うさぎ!』を読んで、「文化や歴史などの文脈から切り離された、ものやこと」についていろいろ考えていました。 例えばですが、この前見てきた、地元のおまつり「大垣まつり」。 13のやま(「車山」というのをぎゅっとくっつけた「 軕」という字が当てられます)が、市内の門前町をくまなく巡るという祭礼行事です。300年以上続いているおまつりだそうです。 町ごとに、代々受け継いできた「やま」を、その町の構成員が引き回します。(お酒を飲みながら…。) 巡るルートは、一年ごとに東回り、西回りと変わります。その道筋は決まっていて、変えることはできません。そのルートの中には、「10メートルほどで行き止まりなんだけど、必ず行って戻らなくちゃいけない」という箇所もあります。なんという美しい無駄。 これを「日本のおまつり」として、海外に輸出したらどうなるか。構成員にもルートにも制限を設けず、ただ形だけ「やま」を引き回す…そうしたら、その場では、この文化の美しさはほぼ消えてしまうことでしょう。 そういうようなこと、レリゴーもメイソン・ジャーと同じようなことが、身の回りにどれだけ積まれているのだろう。そういう「抜け殻」に囲まれて、何かが見えなくなっていやしないか。 ひやひやする思いで、日常を眺め直しています。

作品の前でパフォーマンスすること

先日、世田谷文学館で小沢健二さんが演奏をされたそうです。 岡崎さんの作品の前で演奏をするのは、普通の演奏とは違う、特別な意味があることだと思います。 「普通の」というのは、お客さんに向かっての演奏、という意味で、聞きたくて聞きに来た人に演奏を披露するのとは、こめられている意味がちょっと、だいぶ、違うように思います。 ツイッターでも書きましたが、以前、NHKで画家のフランシス・ベーコンさんの展覧会の会場で、ダンサーの田中さんが踊りを披露するイベントの前後を記録したドキュメンタリー(記録映像)番組を見たんですね。 田中さんは、フランシス・ベーコンさんの作品や、彼の生い立ちを見つめ、ゆかりの地を訪ね、彼に近しかった人たちと話し合い、少しずつ彼のことを咀嚼していきました。 作品も作者のことも咀嚼をして、そのうえで、彼の作品の前でパフォーマンスする。お客さんも大勢いましたが、そのダンスは、作品の一部となって、作品以上に生々しく、熱を持った生き物として現在に生まれ出てきました。その様子は、映像からでも、強く伝わってきました。 「こういう表現もあるんだなあ」と、感動したのですが、そのことを、今回の演奏の様子を人伝えに聞いて(読んで)はっきり思い出しました。 その演奏は作品の一部として、その瞬間、生きていたと思います。 岡崎さんと、離れず同じ場所にいる(精神的に)、小沢さんだから、媒体になれたんだろうなあと思います。岡崎さんの作品を、「生き物にする」パフォーマンス。 田中さんが番組で言っていて印象的だったのが、踊りのあとに、「作品がみんな、こちらを見ていた。それを感じて、身が引き締まった。へたなことはできないと思った」というようなことをおっしゃっていたこと。その場で、作品や作者と、本当に立ち向かって、同志として(賛同者という意味じゃなく…)その場にもう一つの芸術作品をつくりだそうとするその試みには、考えられないくらいの覚悟が必要なんだろうなあと感じました。 そういう感じで、そうとうの覚悟が必要だったんじゃないかなあ、と想像して、単純に「よかったな」と思っています。「そういうのができて、よかったなあ」と。 小さい会場で、パニックも予想できて、それでも「生き物にする」のをやってみたかったんじゃないかな、とぼんやり思っています。 その作品に...

第37話を読書中

62号の巻頭の写真エッセイ(エリザベス・コール)は「新しい川」との題。息子さんの目線に立って撮ったと感じる美しい写真が目を引きます。色彩豊かで、はっとするようなエリザベスさんの世界観が印象的です。 今回の「うさぎ!」、とても興味深かったです。ストンと心と頭に入ってきました。日常でもその考え方がよく心によぎります。 うさぎを読むと、まるでなにかのリハビリをしているみたいな気分になります。「ここも動かなくなってた」「ここも見てなかった」「知らなかったということを知らなかった」という発見がいっぱいです。季節ごとにこれを繰り返せるのが楽しいです。

戦後の絵本の国のこと

数号前から61号まで、深く考察された「戦後の絵本の国のこと」。 ドル・ギャップという言葉に集約できる、その現象を、おぼろげながら、少しだけ把握できたように感じています。 とは言っても、どれもが「初めて聞く話」。すっとは理解することができません。 文章を読んでいても、意味が入ってこなくて、何度も2、3行前に視線を戻す必要がありました。 敗戦した絵本の国が復興できた本当の理由。 あたかも「自然な流れ」でいつのまにかできあがっていたように感じさせられていたそれが、確固とした意思でつくられたものであったということ。 意思で現実を変える。権力者はみなそれをしていると、作者は表現します。 もちろん私にも変えることができる。 一人の力は小さいけど、それでも、変えることはできる。 よしもとばななさんの講演でも同じことが言われました。 「一人の力はとても小さいと、意味がないと、思わされている。  でも、一人の力は実はすごく大きい。  実はすごい影響力を持っている」のだと。 だから一人一人が、それぞれ、少しずつでも変えようと。今の世の中がおかしいなら、自分たちの一つ一つの手で変えようと。 小さなことでかまわないから。 それを信じることができないように、あらゆるものが考えを曲げようとしてきます。 それは、きっと、一人一人の力がこわいからに違いないです。 勤勉で手先が器用で、まじめでひたむきな絵本の国のご先祖様。その素質を持っている私。 小さなことを、積み重ねていきたいなと思います。

NYCのこと POPEYEを読んで

マガジンハウスの『POPEYE』ニューヨーク特集を読みました。 いろいろな場所から、いろいろな人がやってくる場所、ニューヨーク。 長年NYCに住んできた小沢健二さんが、車の運転席から見渡した街の景色・・・。街の懐の深さが、よく見えてきます。 「お互い様」 そこには、大都市の冷たい感触だけではなく、日本語で言う「お互い様」の精神に似た生あたたかさを感じました。 undocumented peeple、書類を持たない多数の人たちと混じり合う生活の中で、距離を見計らいながら、お互いを認め合っている印象。日本の地方に息づく、小さな班の連帯感とはまた別の、共同意識が根付いているんだなあ、と感じました。 よくsalad bowl、と形容される大都市の風景は、単語だけでは想像がつきません。NYCのようなトップレベルの大都市にも、やはり血が流れているんだ、と感じさせられました。どくどくと。呼吸して、血が流れて、新陳代謝があり、生きていく街。 「NYCを自家用車で走り回ってみよう」なんて野望、抱くことすら無理な私。そこからの景色を垣間見ることができて、おもしろかった。 同時に、「日本の、地方で、戸籍を持ち、子どもを持ち、自営業をして、自家用車に乗り・・・」そんな自分の生活も、どこか外から見たら相当貴重だ、とも思いました。

超LIFEを観て

スペースシャワーの特集『超LIFE』を観ました。 制作の裏側を見ることができて、うれしかったです。練られて練られて、できあがったものだったことがうれしかったです。 小沢健二さんの音楽や文章に出会った高校時代、その後、「もう戻ってこないのかな」と思い続けた長い期間を過ごし、今また『うさぎ!』やコンサートで作品に触れることができてうれしいです。 耳について離れることのない『LIFE』。このCDと一緒にいろんなシーンを越えてきました。 勇気をくれたり涙をまぎらわせてくれたり、料理や仕事や運転のBGMになってくれたり。幸せをもっと幸せと感じさせてくれたり。近年は子どものお気に入りとしても活躍中です。 間違いなく一番聴いたCDだし、これからも聴き続けます。 空気のように、祝福のシャワーのように、オルゴールのように、私の人生の中で響き続くLIFE。 ありがとう。 力を、憩いを、ハッピーをたくさんくれて、ありがとう。

第35話 戦後の再デザイン

戦後の絵本の国と基地帝国の関係について紐解いた第34話に続き、基地帝国による戦後の世界の再デザインが考察されていきます。 本話は、四面楚歌であった戦後の絵本の国を、基地帝国がどう利用していったか。ドル札の使い手として、絵本の国を育て上げていったいきさつを追っています。 特に印象に残ったのが「魔法の杖」。その言葉さえ振りかざせば、人が、世界が服従する魔法のキャッチフレーズ。それが、いつの時代にも、都合のいい「敵」をつくりだし、人々をある方向へ向かって駆り立てるという点でした。 確かにニュースを見ても新聞を見ても、そんなキャッチフレーズが見つけられるように思います。歴史の教科書にも。 絵本の国は、ある時期まで、戦後「おもちゃと陶器だけ」生産することを許された、そんな国になりそうだった…。こんな話、今まで聞いたことがありませんでした。 見ようとしても見えない、裏側の本当の話。それを暴いてくれる『うさぎ!』は、稀有な存在のフィクションだとあらためて思いました。

第34話 日米「同盟」

88。 日本には88の米軍基地がある。 防衛省のHP を見ると、 平成26年(2014年)1月1日現在で、84施設・区域とある。 このうち32施設が沖縄にある。 ✦ 「基地問題」というと、私たちの頭には 「沖縄」が浮かぶようになっているらしい。 「あ~、基地ね。沖縄にたくさんあって、 最近さらにもめてるよね…」 自分の家の近くにある基地のことを、 思い浮かべることはない。 時々、基地の近くを車などで通りかかると 「そうか、ここにも基地があるんだ」と思うけれど、 それと沖縄を結びつけることはしない。 不思議だと思う。 ✦ 「アメリカ言いなり もうやめよう」という スローガンを掲げた政党がある。 見かけたことがあるだろうか? でも「普通」の人なら 「なに言ってるんだか」 と一笑に付すところだと思う。 そういうふうに、世の中はつくられている。 ✦ よその国の軍隊が、国中に84もの場所に 駐留している国。 それを受け入れて、 考えないようにしている国。 それが私たちなんだなあ、と 今回のうさぎ!を読んで思った。 自己暗示をかけるのがうまい国民だなあ、と…。 そういう性質があると思う。 目立つことはしたくない。 他の人がしていることと同じようにしていたい。 同じ色の中に、隠れていたい。 同時に「しつこさ」や「破天荒」や「思い込みの激しさ」 なども絵本国民の特性として 浮かぶのだが… こんなイメージが浮かぶようになったのは、 「うさぎ!」を読んだ影響だと思う。 以前はこんなふうに絵本国民を思い描かなかった。 ✦ 敗戦国がなぜ 「高度経済成長」できたのか。 その裏側が第34話に書かれている。 絵本の国をドル金持ちにして、 基地帝国の上客にする、と。 そのねらいがなければ、 今のような絵本の国はなかった。 「上客にする」、これはすごく成功していると思う。 ありがたがって買っている。 彼らのつくる製品を。 不思議だけど、そういうことになっている。 ✦ 以前の「うさぎ!」にあったように、 絵本国民のおそるべき性質(狂乱、予測不能、強力な連帯など)が いつか爆発すればいい...

第33話 広告は若者に忠誠心を植え付ける

第30話から第33話まで、広告について論じられましたが、 うさぎいわく「広告の話は一旦おひらき」だそうです。 今回は広告のターゲット層は 若者である、というところに 焦点が当てられました。 なぜ? 広告は、 実体験から広告のからくりについて知識があり、 買う物がある程度定まっている 年配者をターゲットとして好まない。 広告は、 経験が不足していて頭が柔らかくてメディアの影響を受けやすく、 買う物や欲求が定まっていない 若者をターゲットとして好むから。 「うさぎ!」は、 それを悟られないために 広告やメディアが彼らを「持ち上げる」手法すら 確立していると指摘します。 ✦ ブランド・ロイヤリティー(ブランドへの忠誠心)に言及した箇所に 特に「そうだよなあ」と思いました。 確かに着る服についても 「ブランドAを着るか、ブランドBを着るか?」というのは 雑誌の特集として成り立つけど 「ブランドAを着るか、それとも自分で縫うか?」というのは 雑誌の特集として成り立ちません。 「ブランドAを着るか、それとも母親のお古の着物を着るか?」も しかり。 化粧品でも、 スマホでも、 おもちゃでも同様です。 メディアがまず仕立てる「舞台」や「足場」がどんなものなのか、 それを認識してから、議論について目を向ける必要があるんだなあ、と あらためて思いました。 ✦ たびたび「うさぎ!」では広告やメディアに関するテーマが 扱われます。 その影響力が巨大だから、というのも理由のひとつなんだろうな。 人に「自分が自由だ」と思わせることで 人の心を影響下に置く、 という手法さえ、広告の世界では常とう手段であるそうです。 巨大な金を引き連れて暗躍する「広告」は、 「うさぎ!」のいう「灰色」の大きな部分を占めているのかもしれません。

第32話 大雑誌・大新聞の記事と広告

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うさぎ、トゥラルパン、きららは広告の本当の力について話しています。 大雑誌、大新聞は、収入の大きな割合を占める広告の出稿主に気に入られるための記事を書く。 出稿主の気分がよくなる形に、読者の気持ちをつくっていく。 そうして読者は購買の意欲をかきたてられ、また、時には戦争を受容する気持ちを持たされていく……。 ✦ かつて、小沢健二さんがエッセイを連載する「オリーブ」という雑誌がありました。 ファッション記事だけでなくカルチャー記事にも力を入れた誌面は多くの女の子たちの共感を呼び、その当時「オリーブ少女」なる層をつくりだしました。(今や彼女らは「オリーブおばさん」と呼ばれていたりします……。) ファン層を固めたかに思えたあるとき、廃刊へ。一度復刊するものの、結局「オリーブ」は存続しませんでした。 あの廃刊で自分の個性までもが否定されたような気持ちになったものです。 読んでいた人が急に減った?そうではない。今回の「うさぎ!」を読むとそのあたりのからくりにも思いが至るのでした。 確かに「オリーブ」には有名ブランドの広告は、入らない。 ・・・ マスメディアが切り込まない(切り込めない)話題に、「うさぎ!」はやすやすとリーチしていきます。 それは、著者がその枠外にいるから。 枠外に出ること。著者が、あのとき日本のポップミュージック界から去ったのは、そのためとも言えるのかもしれません。 ・・・ 著者のファン層には、言葉を職業とする人が多いと聞きます。出版、マスコミ、ウェブ。それから、教職についた人も。 著者がたびたび広告をテーマに論じてきたのは、そのせいもあるのかもしれないな、と思う。 自由に振る舞っている、と思っている(思わされている)、我ら。そして、そうした職業の人たちは、比較的強い意見の力を持っているという点。 「うさぎ!」を読むと、毎回世界がひっくりかえる。 ・・・ 「新しい服を買わなくちゃ」と思っている私たち。 「戦争もしかたないよな」と思っている私たち。 本当にそう思っているんだろうか。思わされているだけなんじゃないのか? ✦『うさぎ!第32話』掲載の『子どもと昔話56号』 ✦ 目次に戻る

第31話 現実は意思でつくられる

第31話が掲載された「子どもと昔話55号」は、2013年の参院選を前に「特集:非戦の憲法を守り、原発廃止を実現しよう」が組まれました。 その流れを汲んだかのように、今回の「うさぎ!」では憲法、軍隊、非戦、平和といったテーマが取り上げられ、また広告にも焦点が当てられています。 季刊誌を全体として受け止めたときに、さまざまな考えが浮かび、いろいろな思索を持つことにできる号です。 まだ「子どもと昔話」をお手にとられたことのない方は、これを機に55号をお手元に引き寄せてみてはいかがでしょうか。友達に借りるとか。図書館で借りるとか。 発行元へのメール発注 でもスムーズに購入することができます。(メールで発注、現物と郵便局での払込書、請求書アンド納品書が届く、郵便局でお支払い。その場合、送料150円がプラスされ、冊子が830円なのでお支払い合計は980円です。) ✦ 南国市、そしてそこから橋をわたってすぐのX島から帰ってきたきらら。 広告は言論 世の中の流れは自分の手でつくるもの 憲法、軍事力、平和 モノ・カネ・外見主義 戦うこと、立ち向かうこと。 それをおそれないこと。 ✦ 参院選がやってきます。 苦々しい思いを持つ私たちの手に、一票が握られています。 とか書くと、どうなんでしょう、「うわー政治?うっとうしー」って感じでしょうか。 吉本隆明さんの「フランシス子へ」を読んだところなのですが、書中で取り上げられていた「言葉と、それの表す実体を短絡的につなぎすぎてやしないか。疑問を持たずにうのみにしていることが多すぎないか?」というようなお話に、何だか深く共感したのでした。 いつからか私たちは、「考えること」もアウトソーシングできると考えてはいないだろうか? 「考えること」「話し合うこと」は専門家のやることだと、思わされてはいないだろうか? 意見を言うことも、反論することも。 『うさぎ!』はその「考える」を引き出すのがうまい。 憲法とは。軍事力とは。 考え続けたい。しつこく、目を見張り続けたい。 福島の事故を忘れない。 この思いを持ち続ける。いつまでもくやしいと思う。いつまでも、反省したいと思う。 こんな思いのある方、ぜひ「...

第30話 低関心と広告

うさぎ、トゥラルパンたちは、広告について語り合っています。 広告から文章がなくなった 説明のない、イメージだけのCM 内容のない広告を街中に散らしておく理由 一日に数千の言論を浴びせられている僕たち 低関心(広告を疑問なく受け入れる層)と広告の関係 数千の言論を無視し続けなくてはいけない状況で、私たちは? ✦ 本話を読んで、椎名誠さんの小説に『アド・バード』という作品の、荒廃した土地に広告用の鳥たちがうごめく世界が心に浮かんできました。今の世界、あそこへの途上にいる気がします。 広告。売るための言葉やイメージや動きに、私たちは囲まれています。 「本当にそうかな、それほど広告に侵略されてるってこともないんじゃないかな?テレビのCMは飛ばして見ないようにしてるし、物を買うときは自分の判断基準で選んでるし」 ・・・なんて、「自分だけ違う」と思おうとしていたけど、今や広告は「広告っぽくない形で」行われるもの。侵されていないと思っていても、広告の影響からは外れられないのだとあらためて思いました。 インターネットなどのIT技術の目覚しい進歩の様子を見ていると、広告に関係のある機器や技術だからこそ、これほど重要視されて、どんどん高度になってきている気もしてきます。家の中にある物の中で、テレビやパソコンって必要以上にできがよくないだろうか?炊飯器や洗濯機なんかに比べて。 あらゆる物に広告がくっついてくる、挟まれてくる。その中で本、単行本の広告のなさにはあらためてびっくり。(本文の中に、気づかれないように広告が入っている本もありますが。)紙媒体より電子媒体の広告のほうが、品がよくないとも思います。検索ワードなどにひもづいた電子広告の「あなたこういうの好きでしょ、ね、ね」と言わんばかりの広告の出現には、逆に気持ちが引いてしまうことが多いです。このへん、今後もっと上手になっていくんでしょうね。 そんなに買わせたいんだなあ、としんみりもします。私の、お金を出す機能にしか興味がないのだなあと。小沢牧子さんの仰る「財布の口を開け閉めするだけの生活」という言葉が、実感として湧き起こってくる瞬間です。 さて、「低関心」と「高関心」。考えてみました。私はどちらだろう? 広告にはよくつっこみを入れるほうだけど・・・でもよく考えてみると、低関心と...

ラ・ホルナダ

『うさぎ!』でおなじみの、革新的記事でいっぱいだというメキシコの新聞「ラ・ホルナダ」。 著者の奥様、エリザベス・コールさんが長く寄稿しているそうです。 そうだったのか! いろいろと話がつながって、探偵小説のようだ・・・。 奥様のお話は、 こちら 。

第29話 選挙

きららの覚え書き 【キーワード】 ウエッジ・イシュー(くさびになる話題) 国旗 選挙 大衆 プロレス 実感 【こんなようなことが書かれている(主観によるあらすじ)】 基地帝国の大統領選挙。 メディアが、大衆が話題にするのは「ウエッジ・イシュー」、対立候補の支持率を下げるための話題(国旗、同姓婚等)。 きまって「バカ」とされる大衆は、実はそれほどバカではない。 大衆の信じる力で熱く盛り上がるプロレスのように、選挙で盛り上がれないのはなぜか。それはそこに実感がないからだ。 その実感を、灰色の都合のよい形で感じさせるために使われるのが「ウエッジ・イシュー」。灰色に害のない小さな話題で大衆たちを満足させることができる。 そして人びとはささやかな話題で敵と味方にわかたれる。 ✦ きららさんへ 覚え書きを読みました。オバーマ氏の再選が決まりましたね。 一番うなずいた点は「投げてよこされたごみを使って住み処をつくる、そしてごみの中で眠る」という部分でした。 私たちにはたいした材料は与えられないけど、私たちは工夫をして「楽しい我が家」をこさえます。少しずつ足したり引いたりしながら。夢見ながら。 私は信じている。私の信じているものが、みんなの信じる力で飛ばされるものであるべきことを。 それでも無力感はどこにだって満ちています。私のいる小さな場所、いちいちどこにでも無力感がつきまとう。 「自分にはできることがない」「自分は卑小な存在だ」・・・それは誰かからの指令。どうにかそれをはねのけたくて、私は私の小さな場所で、いちいち手を挙げ続けています。 そこにいるのに、いないことにされる。愛があるのに、ないと決めつけられる。そういうことに、いちいちつっかかっていく。ささやかな戦いです。でもささやかな戦いにすら参加しなくなったら、私の居場所はますますなくなっていきます。 どうしてプロ野球には熱中できるのに、世の中のことには熱中できないのか・・・ずうっと前に小沢さんが問いかけた問題に対する答えがこの覚え書きには書かれていると思いました。 でも確かにまだ、ここ絵本の国でだってこの手で世の中を押して動かすことはできる。たとえば原発政策のパブリックコメント。No Nukesの音楽イベントのパワーも本当にすごかったん...

第28話 白人優越主義

書き手:トゥラルパン コンサート「東京の街が奏でる」の最後の場面 ラブロン・ジェイムスの移籍に対するメディア批判(2010年) 髪の毛、バービー人形 メディアでリピートされることで意味が変わってくる 人種主義と企業主義という二つの大きな仕組み ✦ マイアミ・ヒートは2011年-2012年期のNBAファイナルで優勝を果たした。ファイナルMVPはレブロン・ジェームズ。 私たちはいつでも位置づけられている。仕組みから、社会から、周りから。 そのことを意識していたいと思う。 髪の毛のこと。日本の女性は、生まれつきは黒髪である人が多い。太くて直毛の髪を持つ人が多い。くるくるっとしたカールがついている人が少数いる。うねるような癖を持つ人もいる。 美容院に行くと、カラーやパーマをして、茶色にしたりカールをつけたりする人が多い。特にカラーは一般的で、薬剤を買ってきて自宅で染める人も多い。髪の毛が伸びてくると、根元だけ黒くなって目立つ。カラーやパーマを繰り返すことで髪は傷む。 黒い髪はおしゃれじゃない、という意識は今も根強いと思う。「見た目に重苦しいし、軽さが出ない」そうだ。 「重苦しい」か。 服装もそうだし、メイクもそうだし、いろんな分野で洋式化されてしまっているから、髪型だけ和式にするわけにはいかないという感じだ。 和服にして、和服に合うヘアメイクをすればいいのだけど。それをしたら周囲になじめなくなる。 日本人であることで、周りは私をどう位置づけるだろう。「賢い消費者」として?「理想的なフォロワー」として? 個人の意識はまったく自由だが、それとは独立して、周りからの意味づけも必ず存在する。 「こう振る舞いなさい」「こうありなさい」「そんなことを考えてはいけません」・・・あらゆる時に、一斉に鳴り出す、警告音のように。 それに従うふりをする。時に、聞こえないふりを、してみる。 ✦ 目次に戻る