第30話 低関心と広告


うさぎ、トゥラルパンたちは、広告について語り合っています。

広告から文章がなくなった
説明のない、イメージだけのCM
内容のない広告を街中に散らしておく理由
一日に数千の言論を浴びせられている僕たち
低関心(広告を疑問なく受け入れる層)と広告の関係


数千の言論を無視し続けなくてはいけない状況で、私たちは?



本話を読んで、椎名誠さんの小説に『アド・バード』という作品の、荒廃した土地に広告用の鳥たちがうごめく世界が心に浮かんできました。今の世界、あそこへの途上にいる気がします。

広告。売るための言葉やイメージや動きに、私たちは囲まれています。

「本当にそうかな、それほど広告に侵略されてるってこともないんじゃないかな?テレビのCMは飛ばして見ないようにしてるし、物を買うときは自分の判断基準で選んでるし」
・・・なんて、「自分だけ違う」と思おうとしていたけど、今や広告は「広告っぽくない形で」行われるもの。侵されていないと思っていても、広告の影響からは外れられないのだとあらためて思いました。

インターネットなどのIT技術の目覚しい進歩の様子を見ていると、広告に関係のある機器や技術だからこそ、これほど重要視されて、どんどん高度になってきている気もしてきます。家の中にある物の中で、テレビやパソコンって必要以上にできがよくないだろうか?炊飯器や洗濯機なんかに比べて。

あらゆる物に広告がくっついてくる、挟まれてくる。その中で本、単行本の広告のなさにはあらためてびっくり。(本文の中に、気づかれないように広告が入っている本もありますが。)紙媒体より電子媒体の広告のほうが、品がよくないとも思います。検索ワードなどにひもづいた電子広告の「あなたこういうの好きでしょ、ね、ね」と言わんばかりの広告の出現には、逆に気持ちが引いてしまうことが多いです。このへん、今後もっと上手になっていくんでしょうね。

そんなに買わせたいんだなあ、としんみりもします。私の、お金を出す機能にしか興味がないのだなあと。小沢牧子さんの仰る「財布の口を開け閉めするだけの生活」という言葉が、実感として湧き起こってくる瞬間です。

さて、「低関心」と「高関心」。考えてみました。私はどちらだろう?

広告にはよくつっこみを入れるほうだけど・・・でもよく考えてみると、低関心と高関心のごっちゃまぜ、って感じが近いでしょうか。

広告を見て「んなわけないだろー」とか「またこのパターンー」とか冷静に受け止められることも多いのですが、とあるもの・ことになると、事情が違ってくるからです。

たとえば「小沢健二のコンサート」の広告だったら、ひとめ見ただけでぱあーっとなって何も考えられなくなり、高額だろうが抽選だろうが申し込んでしまう、とか。よしもとばななさんの小説に関してもそうですね。あとは化粧品分野にも弱くって、買わないのだけどコスメの広告を見るとぽーっとなってしまいます。

興味があるものには低関心で、興味がないものには高関心、ということになりますか。なんだか逆説みたいだけど。

みんなそうじゃないかな?低関心でだけいられる人も、高関心だけでいられる人も、いないんじゃないかな。

広告の進化の仕方って、おもしろいですね。

メールの受信箱にいわゆる「迷惑メール」がたくさん入ってきて、読んでないのだけどちらちらと件名が見える。「人妻」とか「当選」とか「ネカフェ」とか書いてあるのが、目に入ってくる。

夢の中でまったく関係ないと思っていた事柄が出てくるのと同じように、そういう断片はすべて私たち人間が共通して持ってるのだと思う。「女ほしい」とか「エロ」とか「金ほしい」とかそういうの。

ちらちらとそういうのが見え隠れするのって、人間っぽいなあとも思うのです。

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