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作品の前でパフォーマンスすること

先日、世田谷文学館で小沢健二さんが演奏をされたそうです。 岡崎さんの作品の前で演奏をするのは、普通の演奏とは違う、特別な意味があることだと思います。 「普通の」というのは、お客さんに向かっての演奏、という意味で、聞きたくて聞きに来た人に演奏を披露するのとは、こめられている意味がちょっと、だいぶ、違うように思います。 ツイッターでも書きましたが、以前、NHKで画家のフランシス・ベーコンさんの展覧会の会場で、ダンサーの田中さんが踊りを披露するイベントの前後を記録したドキュメンタリー(記録映像)番組を見たんですね。 田中さんは、フランシス・ベーコンさんの作品や、彼の生い立ちを見つめ、ゆかりの地を訪ね、彼に近しかった人たちと話し合い、少しずつ彼のことを咀嚼していきました。 作品も作者のことも咀嚼をして、そのうえで、彼の作品の前でパフォーマンスする。お客さんも大勢いましたが、そのダンスは、作品の一部となって、作品以上に生々しく、熱を持った生き物として現在に生まれ出てきました。その様子は、映像からでも、強く伝わってきました。 「こういう表現もあるんだなあ」と、感動したのですが、そのことを、今回の演奏の様子を人伝えに聞いて(読んで)はっきり思い出しました。 その演奏は作品の一部として、その瞬間、生きていたと思います。 岡崎さんと、離れず同じ場所にいる(精神的に)、小沢さんだから、媒体になれたんだろうなあと思います。岡崎さんの作品を、「生き物にする」パフォーマンス。 田中さんが番組で言っていて印象的だったのが、踊りのあとに、「作品がみんな、こちらを見ていた。それを感じて、身が引き締まった。へたなことはできないと思った」というようなことをおっしゃっていたこと。その場で、作品や作者と、本当に立ち向かって、同志として(賛同者という意味じゃなく…)その場にもう一つの芸術作品をつくりだそうとするその試みには、考えられないくらいの覚悟が必要なんだろうなあと感じました。 そういう感じで、そうとうの覚悟が必要だったんじゃないかなあ、と想像して、単純に「よかったな」と思っています。「そういうのができて、よかったなあ」と。 小さい会場で、パニックも予想できて、それでも「生き物にする」のをやってみたかったんじゃないかな、とぼんやり思っています。 その作品に